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ナパワインとは?

アメリカには2020年時点でおよそ11,000軒のワイナリーがあり、国別生産量では世界第4位のワイン生産国。
世界全体の12%相当(750ml換算で約45億本)のワインを生産している一方で、海外に輸出されているアメリカ産ワインの95%はカリフォルニア州産ワインが占めています。

カリフォルニア州はアメリカ全体におけるワイン生産の約81%(2020年時点)を占める全米最大のワイン生産州というだけでなく、カリフォルニア州を国とみなした場合でも世界第4位の生産量となります。

ちなみに、カリフォルニア州内で栽培及び収穫されたブドウを100%使用し醸造したもののみがカリフォルニアワインと名乗ることが出来ます。

ナパバレーにはおよそ600軒のワイナリーがありますが、全体の95%は家族経営の年間生産量5,000~10,000ケース程度のワイナリーが殆どであり、ナパバレーのワインがアメリカ全生産量に占める割合は4%程度。

ナパバレーにあるワイナリーの大半は大量生産を目指すのではなく、高品質なワインの醸造を意識しているということを意味するのではないでしょうか。

ナパ(Napa)とはネイティブアメリカンの言葉であり、"豊かな土地(Land of Plenty)"を意味します。

ナパバレーでワイン造りが盛んな理由

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アメリカ西海岸に位置するカリフォルニア州サンフランシスコの緯度は日本の福島県と同じ位置にあります。
サンフランシスコ周辺エリアはアラスカ方面から流れこんでくるアラスカ寒流によって海水温度が非常に低いことが特徴で、陸地との寒暖差が大きく開く夏場は有名な霧が発生することで知られています。夏でも平均気温が17~18度前後であったりする一方で、冬場は10度前後ということもあり年間を通して寒暖差が少ないことが特徴です。

そのサンフランシスコから北東に車で1時間半弱の場所に位置するナパバレーもサンフランシスコ同様に地中海性気候となり、この気候帯は世界に2%程度しかないと言われています。ナパバレーは南北に50km、東西一番広いエリアで5~6kmの細長い盆地で、2つの山脈(バッカ山脈とマヤカマス山脈)に挟まれることでバレーを形成し、バレーの南にはサンパブロ湾が迫っています。

ナパバレーはブドウの生育期間中に雨が降ることが殆どなく、朝晩の寒暖差が大きいため高品質のワイン用ブドウの栽培地として理想的と言われています。雨の心配をする必要がなく十分な日照時間を得ることが出来るため、ブドウの目安となる糖度や成熟を得るのに適しているからです。(これはナパバレーのワインにおいて凝縮感や果実味のあるアルコール度数の高いワインが多く見受けられる理由の一つでもあります。)


一概にナパバレーといっても、南に位置するカーネロスと北のセントヘレナやカリストガでは全く異なる気候特徴を持っています。カーネロスAVAエリアにはサンパブロ湾からの冷涼な海風が流れ込みます。一方で北のセントヘレナAVAやカリストガAVAエリアは太平洋の影響をそれほど受けず、夏は暑くて冬は寒いことが多々あります。
同じナパバレーの中でも畑のロケーションや形状、傾斜の組み合わせによって栽培環境は大きく変わります。

ブドウ栽培においてこれら気候と共にもうひとつ重要な要素となるのが土壌ですが、バレー内には様々な特徴をもった土壌タイプが存在しており、一説によると地球上に存在する土壌タイプの半分相当が存在するエリアと言われていることから、ワイン造りにおけるテロアールを表現するには理想的な場所と言われ世界の注目を浴びています。

ナパワインの歴史

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カリフォルニアにおけるワイン用ブドウ栽培は、スペイン人宣教師によって1769年にサンディエゴ近郊で栽培されたことが始まりと言われています。

その後、カリフォルニアでは1848年にサクラメント近郊で金が発見され、翌年1849年からゴールドラッシュに湧きます。
一攫千金を求めて東海岸から西海岸に人流が増えると共に、この地の気候環境に魅せられた人々がナパやソノマといったエリアでブドウ栽培、ワイン造りをするようになっていきました。

 

多くのヨーロッパ人がアメリカにワイン用のブドウを持ち込み栽培を試みたものの、アメリカ東部では病害などの影響で、ヨーロッパ系のブドウはなかなか根付くことが出来ませんでした。19世紀半ばにメキシコからアメリカ領となったばかりのカリフォルニアには、同時期に発生したゴールドラッシュの影響で、東部から一気に人が押し寄せましたが、その際に持ち込まれたヨーロッパ系のブドウは、比較的ブドウに対する病害が少ないこの地でようやく根付くことが出来たのです。

19世紀の終わりにかけて、カリフォルニアのワイン産業は大いに発展します。フィロキセラの影響で大きな被害を受けますが、自国のヴィティス・ラブルスカ種のブドウを台木にすることでこれを克服しました。

しかし、1920年から1933年まで続いた禁酒法の為、アメリカのワイン産業の発展は一旦ストップすることになります。
禁酒法が廃止されてからは、本格的にワイン生産が再開されましたが、ブランクの影響は大きく、酒類に関する規制は引き続き厳しかったため、アメリカのワインが世界に認められるようになるには、1960年代まで待たなければなりませんでした。

1960年代になると「カリフォルニアワインの父」と言われるロバート・モンダヴィ氏が1966年にナパにワイナリーを設立するなど、世界を目指す意識の高い生産者が次々と現れてきます。

その後、1970年代には本場フランスのワインに匹敵するワインが造られるようになりました。
そして、1976年にある事件が起こります。

1976年パリステイスティング

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アメリカの独立200周年記念にあたる1976年5月24日、フランスのパリでアメリカ産ワイン対フランス産ワインのブラインドテイスティングイベントが開催されました。このイベントは後に"パリステイスティング"または"パリスの審判"と呼ばれ、ワインの世界で最も有名な出来事となりました。


世界的に有名なワイン学校である"アカデミー・デュ・ヴァン"の創設者スティーブン・スパリエ氏が主催したこのイベントでは、当時まったく無名だったカリフォルニアワインが、バタール・モンラッシェ、ムートン、オー・ブリオンといった5大シャトーのフランスワインを打ち破るという快挙を成し遂げ世界中のワイン関係者を震撼させます。
 

米国『タイム』誌の記者だったジョージ・テイバー氏は、有名なギリシャ神話の挿話になぞらえて『パリスの審判 Judgment of Paris』というタイトルでイベントの結果を報道。彼の記事は次の文章から始まっていました。


「考えられないことが起きた。カリフォルニアがフランス勢をことごとく打ち倒した」


このイベントを境にニューワールド(新世界)と呼ばれるワイン産業の新興国でも盛んにワインが造られるようになり、世界におけるワイン地図が大きく書き換えられていくことになるのです。

そもそもなぜこのイベントが開催されることになったのか。
現在でこそ有名なワインスクール「アカデミー・デュ・ヴァン」のイギリス人創設者のスティーブン・スパリエ氏がワインをテーマにアメリカ独立記念を祝うイベントを計画。その目的は自らのワインスクールやワインショップの宣伝活動の一環でした。

既にフランスのワイン業界において確固たる人脈を築いていたことから、有名レストランや出版社、醸造家など業界を代表する著名人を審査員に迎え、アメリカ産ワイン6銘柄に対し、フランス産ワイン4銘柄の白ワインと赤ワインを"ブラインド"でテイスティングし採点するというイベントを催したのです。テイスティングは白ワイン赤ワインの順番で行われました。当初は赤白両方の採点が終了してから結果を発表する予定だったのが、進行の遅れによって白ワインの結果を急遽発表することに。

そこで発表された結果は1位がシャトー・モンテリーナ(Chateau Montelena)という当時無名のカリフォルニア産1973年シャルドネだったのです。会場はどよめき、審査員たちはうろたえました。
 

次の赤ワインのブラインドテイスティングでは同じことが起こらないようにと、審査員達はあからさまにフランス産ワインを推すことを試みるも、ブラインドテイスティングによる結果は彼らの期待を裏切るのでした。


フランスの著名審査員が1位に選んだのはカリフォルニアのスタッグス・リープ・ワインセラーズ(Stag’s Leap Wine Cellars)の 1973年S.L.V.(カベルネソーヴィニヨン)でした。

当時、ワインの世界で絶対王者として君臨するフランスワインを無名のカリフォルニアのワインが打ち破るとは誰も想像しておらず会場は騒然となると共に、この結果に不満を覚えるフランス勢が10年寝かせたワインで再度対決させることを提案。

1986年に第2回大会として再度イベントが開催されるも、第1位に選ばれたのはまたもやカリフォルニアの赤ワイン
クロ・デュ・バル (Clos du Val)のものでした。

更に第1回大会から30年後となる2006年に第3回大会が開催され、この大会でも第1位に選ばれたのはカリフォルニアのリッジ・ビンヤーズ(Ridge Vineyards)の赤ワインだったのです。


こうしたことを経て、現在のナパバレーは世界的にも有数のワイン産地へと昇りつめていくのです。

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